オコエ瑠偉選手に対する表現 Racial discrimination in Japan media
- titanium-kotaro
- 2015年8月18日
- 読了時間: 3分

今年の甲子園はタレント揃いで、なにやら漫画「ドカベン」のように次から次へと魅力的なキャラクターが登場し、
とても楽しんで見ている。
ところが関東一高のオコエ選手を報じる記事を見たら、悲しくなった。
彼の魅力を伝えるのに‘アフリカ’、’野生’などのイメージさせるステレオタイプな表現に溢れていたから。
これは人種差別だ。
記者やデスクは、なにも疑問を持たずに記事にしてしまったのだろうか。
メディアで働く人間なら、人権意識、そしてそれに関わる表現の仕方・文脈を意識する事を
新人の頃に叩き込まれる。
それは差別用語に対する「言葉狩り」などではなくて、
文脈・コンテキストがどういう意味を持つか、背景・歴史・状況・文化などを併せ持って
総合的に考えて表現をする。
もう30年近く前に、「放送禁止用語」なんて’言葉狩り’をする事=差別しない事 と誤解する向きもあったけど
決して「言葉狩り」などではなくて、文脈・コンテキストの問題だ。
例えは悪いが、「イチローがサルのようにダイヤモンドを駆け回った」などと日本人の我々が表現されれば
その怒りは直感的にわかってもらえるだろうか。(イチロー選手、ゴメンナサイ)
一昔前、既存メディアである新聞・テレビ・雑誌・ラジオなどのメディアは
それなりに人権・差別等に対しての見識や規範を持っていて、差別問題表現は影をひそめていたはずと思う。
それがなぜ一流スポーツ紙でこんな表現が出てしまうのだろう。
知人と話していて、ネットにより皆が表現者になり得てしまった事が大きいんじゃないか、となった。
差別問題って難しい。本人にその気はなくても相手にとっては大変な侮蔑になるケースもままある。
ましてや国際化が進み、様々な民族・人種との交流が増えていくなかで
相当に勉強しないと、表現者としては失敗をしがちだし、平気で表現してそのままのケースも散見する。
中学生でもSNSやブログで発信する時代、
その世代なりに知識は積んでいるのだろうけど、人権・差別に対する感覚はむき出しでネット上に流れる。
そんな状況の中で、若いとはいえプロである表現者の人権意識が揺らいでいないか?
各メディアが積み上げてきた人権意識・表現手法が崩れ始めていないか?
僕らは今までそれなりの蓄積を持ってきただろうし、
時代の流れで日本語・倫理・文化が変化していく事はあれだろうけど
現時点でベストと思える言葉・表現・人権意識を総動員して、
若い世代にも手本になるような表現をしなければならないのではないか?
さらに言えば、右でも左でも愛国主義でも、主義主張はいろんな意見があって当然だけど
ネットはもう公の空間であって、
そこでレイシズムに根差した表現は、よほど書き手に自負と意図がない限り
許されないと思うし、すべきでないと思う。
愛国とキセノフォビアは違う。
世界がどんどん広がれば、新しいケースでうっかりやらかす間違いも起きてしまうかも知れないが
謙虚に真摯に表現に向き合いたい